「子どもに指示をしない、小言を言うことをあきらめる、手放す。」田中(2020)
夜、我が家で子どもが寝がけにトイレに行きたいと言いました。
トイレはひとりでできるけれど、電気を消したダイニングを通らなければならないので、父親の私もついていきます。
子どもは、用を足し終えると、洗面所までフラフラしながら歩きます。
そして、「ねー、おとうさん、〇〇は△△なんだよー」と言いながら、ペタペタ壁を触わり、私にも触ろうとします。
「手を洗いなさい(実際には言っていません)」と声が喉まで出かかります。
そんなとき、私は、田中(2000)で読んだ言葉「小言を言わない」「子どもに指示をしない」
を思い出します。
そして、『この子は今何か話したいのだ』と思うのです。
さらに子どもは続けます。
「それでさー」
「早く手を洗いなさい!(実際には言っていません)」と言いたくなるのを必死に堪えます。
「トイレで用を足したら手を洗う」というマナーをしつけるために、
「手を洗いなさい」と強く言うことが、しつけなのか。
「手を洗う」という行動を身につけさせることが、しつけなのか。
「手を洗うまで待つ」と言うことが、結果的にしつけになるのか。
ちょっとしたことですが、難しいところです。
「手を洗いなさい」と言わないことで、親は何をしていると言えるでしょうか。
眠くてイライラしても、壁がちょっとくらい汚いように思えても、行動がテキパキしていなくても、子どもが自分で考えた行動を見守っていると言えそうです。
「トイレで用を足したら手を洗う」というマナーができるようになると同時に、それ以上のことを学んでいます。
これが、待つこと、手放すことではないでしょうか。
単に何もしていないのではなく、子どもが気づくことだったり、自分で考える環境を整えていたりするのです。
指示や注意のような口頭で強く言って聞かせてやらせる強さとは、異なる強さです。
父親の厳しさとしてよくあるような、「父親が待っているのに、タラタラやって待たせるなんて舐めているのか。甘えるな。」といった強さでは、怒られないために親に従っている状況を作ってしまいます。
トイレはできるようになり、手洗いもできるようになるでしょう。
でも、なんだか父親と一緒にいてもなんだか安心できない、そんな関係になってしまうかもしれません。
『子どもを得るということは、新しい人間関係をつくることです。しかも、この世でこの上なく深い人間関係をつくるチャンスです。親は子どもを育てながら自分自身の育ち損なった部分や欠けた部分に直面させられ、育て直されていきます。そしてそれは、自分の関係性をあらためて子どもと一緒に創造していく契機になるのです。
そう考えると、女性たちは今、親になることによって、自分自身のなかにある不全感や欠損の部分を、わが子との関係性のなかで修復し、そうすることを通して、生きることへの充実感を獲得しようとしているようにも思えます。もちろん、これは無意識的な動きであり、女性たちみんなが意識的にそう思っているという意味ではありません。』田中千穂子(2004)
昨今のように、男性がいわば家庭に「進出」する場合、引用部分の「母親」を、「父親」に置き換えるとよく理解できます。
育児に関わるということは、ひとつひとつの育児を合わせたもの以上のことかもしれません。一つ一つの育児は、子どもとのコミュニケーションであり、父親と子どもとの関係性を築いていくものなのです。
親から愛されたことがないから、子どもをどう愛したらいいのかわからない時は、自分がどう関わって欲しかったか、振り返ることで、どう愛すればいいかが、見えてくるのではないでしょうか。
田中千穂子 2004 『こころのバランスが上手にとれないあなたへ』 講談社
田中茂樹 2020 『去られるためにそこにいる 子育てに悩む親との心理臨床』日本評論社
コメントを残す