「あなたの才能を見つけて伸ばしてあげられなかった」かつて母親が息子である私に語った言葉です。子どもを作品にしていないか、子育てを制作にしてしまっていないか、注意したいものです。
子どもの発達には「時」があります。子どもの準備ができていないと、親が教えても、子どもが学べないと思うことがあります。絶妙なタイミングを見極めることこそが重要なのかと感じてしまいますが、発達の最近接領域と啐啄同時という言葉をよく考えてみますと、継続した見守り、お互いのコミュニケーションが前提にあることに気付かされます。温かな眼差しのもとで、気持ちの呼応(こおう)があるからこその「時」なのですね。
子どもの準備ができていないと、親が教えても、子どもが学べるようにはなれないと思うことがあります。子どもと食事をしている時の食べ方やちょっとしたワークを見ていると「なんど言わせるの」「またやったー」と言いたくなってしまうこと、ありませんか?私はよくありました(笑)。
私もなるべく言いたくないなと、思ってはいるのです。それに、注意してみても、なかなかわかってくれません。また、保育園で疲れているから家ではリラックスしたいのだろうとも思います。でも、親である自分が忙しかったり、人の目や仕事のプレッシャーがかかっていると。いつもより余計に気になって注意したくなってしまうのです。
子育ては、乳児期、乳幼児期、幼児期と、いつの間にかフェーズが変わっていきます。子ども自身も日々できることも増えていきますし、好きなことや興味も時々変わることがあるようです。
また、成長というのは、直線の右肩上がりというわけではありません。体調、機嫌、場所、周囲の人々などの色々な要素に影響を受けて、できるときもあるし、できない・やりたくないときもあるようです。世話する段階と教えて自分でできるようになっていく段階が混在しているので、わかりにくい時があります。「できる」と言っても色々な側面があり、何でも自分でできることを求めてしまうのも、期待しすぎる親の性なのかもしれません。
心理学で、「発達の最近接領域」という概念があります。ヴィゴツキーという心理学者が提唱しました。「発達の最近接領域」というのは、子どもの知的発達の水準について自力で問題解決できる現在の発達水準と他者からの援助や共同によって達成が可能になる水準の二つの水準があると考えます。そして、この二つの水準の間の範囲を「発達の最近接領域」と呼びました。ですから、子どもの発達がある水準にまで至っていないと、親が教えても、子どもがひとりでできるようにはなれないかもしれません(かと言って、ずっと手取り足取りサポートするわけにもいきませんが)。
例えば、えんぴつによる書き方の練習です。えんぴつで書くのには、指の力が必要なんですね。大人は何ともなしに書くことができますが、子どもにとっては力が必要です。腕の力、指の力、書く場所を意識する注意力、えんぴつを動かす方向、目線、それらを調整して統合して、線や文字を書くわけです。「やりたくない、書きたくない」の背景には、これらの困難さがあるわけです。教材に興味を持てるかどうかだけではないようです。ここで、「興味がない、言うことを聞かない」と決めつける前に、「足場かけ」としてのサポートが必要なわけです。例えば、太くて、握りやすいえんぴつを使うなどですね。
雛鳥が孵化するとき、内側から雛鳥が卵の殻をつつくことと、外側から親鳥が卵の殻をつつくこと、この両者のタイミングや力が相まってこそ、卵の殻が割れ、雛鳥は無事に生まれるというものです。これを啐啄同時と言うそうです。
お互いに準備が整っていて、力加減やタイミングが絶妙に合致・一致していなければ、新しい価値が生まれない喩えとして、先生と生徒、師匠と弟子などの関係に用いられます。やってみても、やらせてみても、できないこと、それは教え方が悪いのではなく、その準備が整っていなかっただけなのかもしれません。「ふさわしい時」ではなかっただけです。改めて別の機会にやってみるのも一案です。
一見すると、発達の最近接領域と啐啄同時という言葉は、絶妙なタイミングを見極めることこそが重要なのかと感じてしまいます。そして、その見極めというのは、とても難しいことのように思えます。ですが、発達の最近接領域も啐啄同時も、親鳥の継続した見守り、お互いのコミュニケーション(つつき合い?)が前提にあるのです。それは、「口を酸っぱくして言ってきた」という一方通行の教え、相手の気持ちを顧みない一方的な期待ではないことは明らかでしょう。温かな眼差しのもとで、気持ちの呼応(こおう)があるからこそ、ではないでしょうか。
そして、たとえ成績が上がったり、長所が伸びたりといった、いわば「同時」という絶妙なタイミングをとらえることができなくても、継続した見守り、お互いのコミュニケーションがあれば、その関係性は、「十分によいもの」と言っていいのではないでしょうか。
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