「街灯の下で鍵を探す」というたとえ話をご存知ですか?
それはこんなお話です。
ある公園の街灯の下で何かを探している男がいました。
そこに通りかかった人がその男に「何を探しているのですか?」と尋ねます。
すると,その男は「家の鍵を失くしてしまったので探しているのです」と言いました。
通りがかりの人は気の毒に思って,しばらく一緒に失くした鍵を探しました。
けれども,鍵は一向に見つかりません。
そこで,通りがかりの人は,男に「本当にここで鍵を失くしたのですか?」と訊きます。
すると,男はこう答えました。「いや,鍵を失くしたのはあっちの暗いほうなのですが,あそこは暗くて何も見えないから光の当たっているここで探しているんです」
畑を掘って蛤(はまぐり)を探すような見当違いのことをしていることを,「畑に蛤」と言うそうです。
また,魚を捕るために木に登るような,手段を間違えると目的を達成することはできないことを,「木に縁りて魚を求む」と言ったりします。
これはあらゆることに通じることなのでしょう。
反すうを手放すことも同じです。
自分が大切だと思う価値観に立ち戻ること,そしてその価値観に沿って少しでも行動する,そんな時間を少しずつ増やしていく。
そうすることで,反すうは軽くなっていきます。
なぜなら,反すうというのは,他者の価値観を自分のなかに取り入れようとして,あるいは取り入れなければならないとして,自ら強いて無理強いしているからこそ,起きるからです。
他者の価値観とは,親の厳し過ぎるしつけや教育,宗教の教えなどにもとづくものです。
このような外から・上から押しつけられるような価値観は,他人との比較や優劣の評価に影響して,「自分は劣っている」「自分はダメだ」という自己肯定感の低下につながります。
一方で,自分の大切だと思う価値観には,学ぶ楽しさ,思いやり,公平,美しさなどがあります。
こうした価値観は自分の内から湧き出ています。
行動そのものを楽しむことができ,充実感があり,没頭することができるのです。
大学生の時,インドに行ったことがあります。
マザーテレサの施設「死を待つ人の家」でボランティアをしたいと思ったからです。
3週間ほどの短い期間で,かつ自分のできることに限界はあるものの,物質的な貧しさ,精神的な貧しさに寄り添うことの大事さに触れることができ,その活動に没頭していたことを思い出します。
そんなある日,泊まっていたドミトリーでたまたま知り合ってご飯を食べて仲良くなったオーストラリア人の人がいました。
そして,他の場所に一緒に旅行に行こうと誘われたのです。
これも縁かなと思ったり,少しくらいは流されて旅をするのもおもしろいかなと思ったりしました。
でも一晩考えて,なんでわざわざここに来たのかなと振り返ったのです。自分の価値観よりも相手の価値観を優先してしまい,自分を主張するアサーションを忘れてしまっていたのです。
確かに表面的には,いろんな場所に行けるかもしれませんし,コミュニケーションは楽しいのかもしれません。しかし,他者の価値観にもとづいて行動していては,没頭することはできません。
私はそのお誘いを断りボランティアを続けました。
世界遺産を見たわけでもなく,長距離を移動したわけでもありません。
けれども,マザーテレサの施設でのボランティアで深い経験ができました。
だから,自分の大切に思う価値観を認め,その価値観を大切にしていいのだと自分に許可を出すことです。
そして,1日に5分でも,1週間に1時間でも,その価値観に沿った行動を増やしていきたいものです。
そうすることが,反すうを減らす近道なのです。
参考文献
『うつ病の反すう焦点化認知行動療法』(2023) 大野裕監訳, 梅垣祐介・中川敦夫訳, 岩崎学術出版社.
ウィキペディア フリー百科事典 https://ja.wikipedia.org/wiki/街灯の下で鍵を探す(2023年12月6日検索)