声にならなかった思いを聴くということ :沈黙のスティグマと心理的安全性について考える


この文章は、心理カウンセラーとしての日々と、子育てのなかでふと心に浮かんだ問いを手がかりに綴ったものです。もし何か感じるところがあれば、そっと受け取っていただければ幸いです。

誰にも気づかれずに消えた、静かな人の存在

電車やバス、スーパーやモール――公共の空間で、子どもが泣いたり、親が注意を受けたりする場面は、胸の奥に切なさを残します。

たしかに、迷惑に感じる人も、戸惑う人もいるでしょう。

「子ども連れだからといって許されるのか」

「みんなルールを守っているのに」

こうした声の背後には、“秩序”や“公平さ”が崩れることへの不安があるのかもしれません。

けれど、公平とは本当に、「みんなが同じようにルールを守ること」なのでしょうか。

「迷惑をかけてはいけない」

「困ったときはお互いさま」

この二つの価値観が交差する社会の中で、共通の困りごとがなければ、個別の困りごとは「自己責任」として処理されてしまうことがあるようです。

周りとちょっと違う人へのまなざし──「迷惑」とされる人たち

少し違う意見を持っていたり、行動のペースが異なっていたり、声をあげづらい立場にいたりする人たち。

彼らは、いわば「ノイズ」として扱われ、「周囲に迷惑をかける存在」として無意識のうちにラベルづけされがちです。

そのラベルの重さゆえに、「意見を言う資格がない」と感じさせられてしまうことすらあります。

こうした状態を、私は「沈黙のスティグマ(Stigma of Silence)」と呼んでみたいと思います。

この言葉はまだ一般的には広く知られてはいませんが、精神疾患や社会的弱者の支援に関する文脈では、「スティグマ(偏見)」と「沈黙」の関係は深く語られてきました。

声を上げること自体が「迷惑」「問題」とされてしまえば、ますます静かな人は、見えない場所に追いやられてしまいます。

この「沈黙のスティグマ」は、マジョリティが感じる「秩序」や「同調」への強い期待の中で、周縁に置かれる人々が声をあげにくくなる構造をあらわしています。

それは、意見の中身ではなく、話す人の「属性」によって重みが変わってしまう社会の偏りを、静かに照らし出しているのです。

怒りが優先される社会──「声の大きさ」が正しさになっていないか

なぜ怒鳴る人が空気を支配し、強い立場の人が弱い立場の人を黙らせ、静かな人が身を引くしかないのでしょうか。

静かにその場を離れた人、我慢した人、譲った人。

彼らは誰にも気づかれずに、存在を消していきます。

たしかに、「子どもがうるさい」のかもしれません。

でも実際には、子どもを静かにさせられず、「親が困っていた」のかもしれません。

怒鳴った人も、「自分の居場所が脅かされた」と感じたのかもしれませんし、他者を思いやった結果の行動だったのかもしれません。

ただ、怒鳴られた人は、「ここにいてはいけない」と感じることになります。

それは、子育てのつらさであり、マイノリティの痛みであり、社会からの静かな排除でもあるのです。

誰にとっての“公平”か ── 一律のルールが見落とす背景

対話が難しいときこそ、背景や環境を見直すことが大切です。

すべての人が“同じ条件”でルールを理解し、守れるわけではありません。

文化、言語、発達、心理状態――多様な背景のもとでは、「一律の正しさ」がむしろ“不公平”を生むことがあります。

ここでは、「合理的配慮」「福祉モデル」「BPSモデル」という視点を通して、公正とは何かを見つめ直してみます。

合理的配慮:障害者が平等に社会参加するために、社会が環境を整える義務を負うという考え(障害者差別解消法, 2013)

福祉モデル(Michael Oliver, 1983):障害は個人の問題ではなく、社会の構造によって作られるとする視点

BPSモデル(George Engel, 1977):人の行動や健康を、生物的・心理的・社会的要因が複雑に絡み合うものとして理解する全人的アプローチ

これらはいずれも、「その人がなぜそう振る舞うのか」を環境や構造から理解しようとする姿勢を持っています。

その行動の背景に──共感とは環境へのまなざし

子どもにルールを守らせることは、大人が思うほど簡単ではありません。

共感とは、「正しさ」を判断することではなく、「揺らぎ」に気づくこと。

怒鳴った人にも事情がある。

でも、静かに我慢した人にも、物語があります。

成熟した共感とは、「誰が正しいか」を競うのではなく、「誰もが不完全である」という前提に立つこと。

そして、「誰が大声を出したか」ではなく、「誰が何を抱えていたのか」に目を向けることではないでしょうか。

「なぜあの人だけ特別扱い?」「こっちだって大変なのに」 その声の奥には、「自分が軽んじられている」という痛みや、「社会の秩序が崩れていく」ことへの不安があるかもしれません。

同時に、子育て中の親に対しても、「ルールを破った」と見える行動が、果たして本当に“故意”だったのか、判断を下す前に立ち止まる必要があります。

守れなかった背景に理解の余地を持ち、対話を試みること。

それは、心理的安全性という文化を育てる礎になるのです。

怒らなかった人の声をすくい上げる──心理的安全性という土台

環境を整えること。

対話を試みること。

時間をかけること。

さまざまな方法があります。

でも、あなたはそのとき、静かに立ち去ることを選んだのかもしれません。

譲ってきた人、声をあげなかった人、静かに居場所を手放してきた人たち。

その人たちのやさしさが、私たちの社会の緊張を支えてきたのではないでしょうか。

本当の心理的安全性とは、怒った人をなだめる空気ではなく、怒らなかった人の声に光が当たる場にあると思うのです。

私たちはこれから、沈黙してきた人の物語を、もう一度丁寧に紡ぎ直していく必要があります。

カウンセリングへの誘い──「なかったこと」にしないために

子育て中に、声をあげたくてもあげられなかった場面。

誰かを気遣い、あえて何も言わなかった記憶。

「なかったこと」にしてきた日々があるかもしれません。

本当はつらかったのに、「こんなことで」と自分に言い聞かせてきた。

でも、その沈黙の奥には、きっと大切な物語が眠っているのだと思います。

「怒った人だけが守られて、自分はただ黙っていただけだった」

「本当は、私も助けてほしかった」

「こんなはずじゃなかった……」

そんな思いがあるなら、その言葉をどうか一人で抱えないでください。

カウンセリングは、「本音を語ってもいい」と思える場所です。

過去を変えることはできません。

でも、あなたの気持ちの輪郭を、一緒に確かめ、言葉にすることはできます。

沈黙していたあなたの物語に、もう一度あなた自身の言葉を。

そのためのお手伝いが、ここにあります。

📚参考文献

  • Engel, G. L. (1977). The need for a new medical model: A challenge for biomedicine. Science, 196(4286), 129–136.
  • Oliver, M. (1983). Social Work with Disabled People. Macmillan.
  • 内閣府(2013). 障害者差別解消法(正式名称:障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律).
  • 村上靖彦(2021). 『ケアとは何か』中公新書ラクレ.

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