アンデルセン童話『パンを踏んだ娘』
あなたは、『パンを踏んだ娘』というアンデルセン童話をご存じでしょうか。
私が幼いころ、テレビ番組でこの物語を知ったとき、印象的な歌と衝撃的な展開が心に焼きつきました。
物語はこう始まります。
インガという少女が、一斤のパンを抱えてお使いの帰り道、大きな水たまりにさしかかります。
靴が汚れるのを嫌がったインガは、持っていたパンを水たまりに置き、その上を踏んで渡ろうとしました。
その瞬間、彼女はずぶずぶと沈み、地獄へと落ちてしまうのです。
子どものころは、この話を「食べ物を粗末にしてはいけない」「親の言うことを聞こう」という教訓として受け止めていました。
けれども、大人になった今、インガの姿に重なるのは、誰にも気づかれないまま罪悪感を抱え、沈んでいくような心のありようです。
そこには、「罪」や「罰」、そして「赦し」についての、もっと深い問いかけが隠れているように思えるのです。
公正世界仮説
「悪いことをした子は、罰を受ける」
そんな言葉を、私たちはいつのまにか信じていませんか?
でも、その“正しさ”は、ほんとうに誰かを救えているのでしょうか――。
これは、「公正世界仮説(Just World Hypothesis)」という心理学の考え方で、 提唱者はメルビン・J・ラーナー(Melvin J. Lerner, 1980)です。
「世界は公平であり、良いことをすれば報われ、悪いことをすれば罰を受ける」という信念です。
「勧善懲悪」、「正義は勝つ」、「努力は報われる」といった価値観も、この信念に通じるもので、私たちは、いつの間にか暗黙のうちに、受け取っていることが多いのではないでしょうか。
この信念は、道徳的な行動を促す場面では有効に働くこともあります。
しかし、罪悪感を抱えた人にとっては、自責の念を強めてしまう原因にもなりえます。
「自分は悪いことをしたのだから、罰を受けて当然だ」と思い込むと、かえって罪悪感が癒されることなく、自分を責め続けてしまうことにもつながるのです。
認知行動療法では、このような認知の仕方について、非機能的な認知と言われることがあります。
たとえば、子育てにおいて失敗したと感じたとき、「自分が悪かった」と考えてしまい、「子どもがかわいいと思えない」とまで感じてしまうことがあります。
他者との関係でも、「自分に子育ては向いていない」「誰もわかってくれない」と、孤立してしまうのです。
私もそうでした
ある日、家族とともに訪れた、心安らげるはずの場所で、私は思いがけず、強い口調で責められました。
しかも、一人ではなく、二人同時に。
「またあなたですか」と言われ、事情を尋ねられることもなく、最初から「悪いのはこちらだ」と決めつけられたように感じました。
たしかに、私に落ち度があったことは認めていますし、そのことについては深く反省しています。
だからこそ、弁解もせず、ただ静かにその言葉を受け止めました。
けれど、その瞬間、私はその場に立っていることがつらくなってしまいました。
子どもの声や動きが敬遠されるような空気の中で、決められたルールを完全には守りきれなかった。
その結果、親である自分が責めを負うことになった。
そして、父親であるという立場に対しても、どこか言葉にしがたい違和感のような視線を感じました。
どれほど周囲に気を配っても、それが届いているとは思えず、声を上げた側の言葉だけが通っていく。
目に見える部分だけが取り上げられてしまう。その結果、思いや背景は、まるで存在しなかったかのように扱われてしまう。
一番信じていた場所で、もっとも深く傷ついたのは、「信じていたい」という気持ちだったのかもしれません。
あの日、その場にあったはずの温かな言葉は帳消しされてしまいました。
反対に、私は、まるで石を投げられたように感じられました。
子育ての罪悪感を癒やすヒント
アンデルセン童話『パンを踏んだ娘』には、「罰を与える物語」ではなく、赦しと再出発の物語としてのもう一つの顔があります。
インガは、パンを踏んで水たまりを渡ろうとしたことで地獄に落ちました。
でも物語はそこで終わりません。
インガのことを、ひそかに思い出し、静かに祈り続けていた一人の少女が地上にいたのです。
その祈りが届き、インガは鳥の姿となって、ふたたび地上に戻ることができました。
このエピソードには、罪悪感から立ち直るためのやさしいヒントが込められているように思います。
自分を責めるのではなく、支えてくれる存在を思い出す
罪悪感が強いとき、人はつい、自分を責めることにばかり意識が向きがちです。
「自分が悪かった」「こんな親でごめん」と心の中で何度も繰り返してしまうことがあります。
けれど、どんなときでも、あなたを思い、支えてくれている人がいる──
そんな存在を思い出すことは、罪悪感に飲み込まれないための、心の灯火になるのです。
自分への優しさを持つ(セルフ・コンパッション)
心理学者クリスティン・ネフ(Kristin Neff, 2003)は、「セルフ・コンパッション(Self-compassion)」の大切さを説いています。
それは、失敗や後悔をしても、「私はなんてダメなんだ」と決めつけるのではなく、「そんなときもある。でも、これからどうしていくかが大切なんだ」と自分にやさしく語りかける姿勢のことです。
セルフ・コンパッションは、自己否定の連鎖から抜け出し、前に進む力を取り戻すための“やさしい強さ”でもあるのです。
罪悪感を、行動とつながりへと変えていく
物語の最後、鳥になったインガは、パンくずを集め、他の鳥たちと分かち合いました。
罪悪感に沈むことではなく、小さな善意として他者と分かち合う行動へと変えていったのです。
罪悪感は、私たちをよりよい行動へ導く力にもなり得ます。
けれど、それが過剰になると、私たちは自分を罰し続け、希望を見失ってしまいます。
「私は罰せられて当然なんだ」といった認知は、心理学では非機能的認知と呼ばれます。
そうした認知が続くと、立ち直ることが難しくなり、孤立感が深まってしまいます。
だからこそ
罪悪感のなかにあるときほど、自分にもやさしくしていいということを、忘れずにいてほしいのです。
誰かの祈りがインガを救ったように、あなたにも、きっと見えないところで祈り、支えてくれている誰かがいるはずです。
そして、あなた自身もまた、少しずつ、自分の翼で飛び立っていく力を、もうすでに持っているのです。
子育てのセルフコンパッション
『パンを踏んだ娘』は、罰を与えるための物語ではありませんでした。
むしろ、罪の意識のなかにある人が、どうすれば再び立ち上がることができるのか──その希望の芽をそっと示してくれているように感じます。
子育てのなかで感じるさまざまな思い――
その中には、罪悪感や自責の念といった、言葉にしづらい重さもあるかもしれません。
けれど、その重さをひとりで抱え込まず、「自分にもやさしくしていい」と少しずつ思えることが、回復のはじまりになるのです。
そして、忘れないでいてほしいのです。
たとえ自分を責める気持ちに包まれていても、あなたのことを静かに思い、そっと祈ってくれている誰かが、きっとどこかにいるということを。
罪悪感をやさしさに変えて、また少しずつ、あなた自身の羽で、飛び立っていけますように。
参考文献
アンデルセン著、イェンス・アナセン編、福井信子・大河原晶子訳『本当に読みたかったアンデルセン童話』NTT出版, 2005
Lerner, M. J. (1980). The Belief in a Just World: A Fundamental Delusion. Springer.
Neff, K. D. (2003). “The Development and Validation of a Scale to Measure Self-Compassion”. Self and Identity, 2(3), 223-250.
Wikipedia contributors. (2022, June 11). 公正世界仮説. In Wikipedia. Retrieved July 14, 2022, from https://ja.wikipedia.org/wiki/公正世界仮説(2025年4月9日確認)
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