1. 寓話「盲人たちと象」から考えるアイデンティティの多面性
ある晩、子どもたちに寓話「盲人たちと象」の絵本を読んでいました。
このお話では、目の見えない人たちが、それぞれ象の異なる部分(鼻、耳、足など)を触り、それぞれが「象とはこういうものだ」と主張します。
しかし、目の見えない人たちの答えは、すべて一部であり、象の全体像を正しく捉えてはいません。
私はこの寓話を読んで、外国につながる子どものアイデンティティについて考えました。
2. 外国につながる子どもたちのアイデンティティとは?
2.1 アイデンティティは「どれか」ではなく「どれも」
外国につながる子どもたちは、異なる文化や言語に触れながら成長し、それぞれの経験から「自分とは何か」を探し求め、確立しようとしています。
では、本当に外国につながる子どもたちのアイデンティティは「どれか」に決めなければならないものなのでしょうか?
アイデンティティが多面的・多層的であるという考え方は、「木を見て森を見ず」ということわざや「真理は多面的である」というプラトンの比喩にも通じる考え方です。
物事は、一つの視点だけでは、とらえきれません。
アイデンティティもまた、言語、文化、パーソナリティ、生育歴など、さまざまな要素から形成されています。
どの要素も、その人を形作る大切な一部であり、どれか一つだけで語ることはできないのではないでしょうか。
2.2 親の視点と子どもの視点の違い
親は「自分の子どもには母国の文化を大切にしてほしい」と考えるものです。
また、子どものアイデンティティとして認められるのは、子どもが親の文化を受け入れている時だけだと思うこともあるでしょう。
親の視点から見たときに、「子どもが日本の学校に馴染みすぎて、母国の文化を忘れてしまわないか」と不安になることがありますが、本当に忘れてしまうのでしょうか?
それは、子どもの本当の姿を一つの側面からしか見ていないだけに過ぎないのかもしれません。
子ども自身は、その環境に適応しながら、自分なりのバランスを取っているのです。
3. ある家族のストーリー
3.1 親が不安を感じる瞬間
こんな場面を想像してみてください。
家では母国の文化を大切にしている親のもとで育つ男の子。
でも、学校では周りの日本人の友達と同じように振る舞い、日本語だけで話しています。
親から見れば、家では〇〇の文化を大切にしているのに、学校ではすっかり日本の子どもみたいだと思われるかもしれません。
ある日、母親が息子にこう尋ねました。
「学校でお友達と話すとき、私たちの国のことを話す?」
すると、息子は少し困った表情をして、こう答えました。
「うーん。あまりしないかな。みんな日本のことばっかり話しているし、ぼくもその方が楽だから。」
母親は、心配になりました。
この子は自分のルーツを大事にしているのかしら
日本の学校に馴染み過ぎて母国の文化を忘れてしまわないかしら?
ところが、ある日、親戚の家に遊びに行ったとき、息子は親戚やいとこたちとコミュニケーションをとり、祖父母の伝統的な習慣に興味をもっていました。
3.2 子どもの適応力を知る
その様子を見て母親は気づきました。
この子は、場面によって自分を切り替えながら、どちらの文化も大切にしているんだ。
日本では日本のやり方で、家では家のやり方で生きている。
それがこの子なりのアイデンティティなのかもしれない。
4. カメレオンのように変化するアイデンティティ
子どもは、どちらか一方を選ぶのではなく、場面に応じて変化しながら生きています。
それは「どれか」のではなく、「どれも」ということなのです。
カメレオンのように変化することもアイデンティティの一つです。
5. 大人ができること:子どもの変化に寄り添う
だから、大切なのは、一つの側面だけを見て、「こうあるべき」と決めつけることではなく、子どもの変化に寄り添うこと。
どこにも属し、どこにも属さない――そんな感覚も含めて、子ども自身が安心して「自分らしさ」を育めること。
アイデンティティの確立を急がず、子どもを信じて、子どもが自分自身で伸びていく姿を見守ることです。
それが、外国につながる子どもたちが、安心して未来を歩んでいくための「みちしるべ」になるのではないでしょうか。
まとめ:子どもを信じ、アイデンティティの確立を急がない
外国につながる子どものアイデンティティは一つに決めるものではなく、多面的に形成されます。
カメレオンのように変化する姿を見守り、どこにも属し、どこにも属さない感覚を受け入れることが大切です。
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