外国につながる子どもの支援における「わかってほしい」と「わからない」という、支援者と子どもの間にある距離感


外国につながる子どもたちは、

日々の学校生活の中でしばしば「わかってもらえない」という感覚を抱えています。

  

言葉がうまく通じない。

気持ちを伝えようとしても表現しきれない。

笑われそうで黙ってしまう。自分だけ周りのみんなと違うことはしたくない。

  

そんな瞬間が積み重なると、子どもたちは静かに孤独を抱き始めます。

  

同時に、支援する側にも似た孤独があります。

どうして伝わらないのだろう。

なぜ反応が薄いのだろう。

わかりたいはずなのに、距離が縮まらない。

ついつい、分析したくなってしまいます。

ついつい、問題解決したくなってしまいます。

「どうして?」「なんで?」と問い詰めてしまったり、

日本のやり方を覚えさせなければと焦ったり、

「理解できない自分は支援者として失格なのでは」と落ち込んでしまうことさえあります。

   

ですが、ここで立ち止まってみると、そもそも、文化や言語が異なれば、完全にわかり合うことは難しいものなのです。外国人だからとは限りません。

大切なのは、“わかることというゴールにたどりつくことではないのです。

むしろ、「わかろうとする姿勢」 が大切だと思います。

   

「わからない」から始まる支援

支援の現場では、

「どうして理解してくれないのだろう」

「何度言っても伝わらない」

と感じることがあります。

   

でも、そこには背景があります。

   

日本語が読めなかったり

みんなが話していることがわからないとき、

家庭の文化やルールが学校と違ってどうしていいかわからないとき、

自分だけ仲間に入れてもらいないとき、

子どもたちは、“わからないこと”と“できなさ”を抱えながら、周りと比べ、自分だけ違うと感じ、ときに迷い、戸惑い、言葉を失います。

   

支援者が、「この子はどんな世界を見ているのだろう?」と問いを変えると、関わりが少しやわらかくなります。

   

理解させようと急ぐのではなく、その子が安心できる場所で、少しずつ自分の言葉を取り戻すのを待てるようになります。

時間がかかるかもしれませんし、いつの間にか通じていることもあるでしょう。

   

その子は、その時、何が起きているのかわからなかったり、

どうしていいのかわからないだけなのかもしれません。

教えたことをどう実践したらいいかわからないだけなのかもしれません。

   

「折り合う」「補い合う」「寄り添う」という関係

文化や言語が違う子どもたちと出会うとき、私たちに求められるのは、“完全な理解”ではありません。

日本語が不安定なら、絵やジェスチャーで 補い合う。

ルールが伝わらないときは、一緒に例を見ながら 折り合う。

気持ちを言葉にできないときは、隣で静かに 寄り添う。

それは“同じになること”を目指す支援ではなく、ともに生きる関係 を形づくっていく営みです。

   

「理解」ではなく「つながり」をめざして

外国につながる子どもたちにとって、「先生が自分を見ようとしてくれた」「先生が自分の話に耳を傾けてくれた」という経験は、自分の心の拠り所になるのだと思います。

それは、“完全な理解”ではなく、「自分に注意を向けてくれている」という気づきです。

支援者の顔を見て、「この人なら話そうとしてくれる」と感じた瞬間、子どもは少しずつ自分への信頼を取り戻します。

おわりに

私たちは、他人とは完全に一致できないからこそ、寄り添い合う存在なのかもしれません。

外国につながる子どもたちへの支援も同じです。

「違う」という前提を恐れず、「違うまま」折れたり戻ったりしながら、それでも関わり続けること。

こちらの思い通りにならない子どもを、心配しながらも、信じて関わり続けること。

その営みそのものが支援です。

信じることとは、変化する子どもに対して、距離感を調整しながら関わり続けることなのかもしれません。


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